2008年08月10日

【創作】ママ。

「ねえママ、あとどれくらい?」
「まだ最初のバス乗ったばかりでしょ。これから電車に乗って、後でまたバスに乗るんだから1時間はかかるわよ。」
「一番前の席が良かったな僕。」
「我がまま言わないの。」
「はーい。」

 自分で決めた事とはいえ、一人でこの子を育てるのは本当に疲れてしまった。
 8年前に始めた店が順調だった頃はまだ良かったが、共同経営のパートナーが、店の権利書を勝手に売って失踪してからは、それこそ坂道を転げ落ちるようだった。
 店は他人に取られ、借金を抱えて、水商売にすっかり手を染めた女が働ける場所はやはり水商売。でも、この世界はさほど広いわけじゃないから、そういった噂はすぐに広がる。賃金はほとんど雇う側の言い値。ワケありだとすぐに足元を見られるのだ。
 これまで(これからも?)そんな“ワケ”を抱えた女の多くは、酒の代わりに体を売るようになった。でも私は体を売ったりはしない。そう決めて、死に物狂いで働いた。
 水商売では、賃金以外にも金を手にする事がある。それがチップだ。チップは大抵、下心のある客がお気に入りの女に渡すものだ。だから、下手に受け取ると、後で恐い目に遭う事もある。
 普通のサラリーマンだから良くて、ヤクザがヤバいって事じゃない。最近は普通の男が一番恐い。“普通”を演じてるだけで実はどっか飛んでたりという事があるのだ。
 そんな男はつまらない事を根に持ったり、誰が聞いてもわかるほど面白くも無い冗談を間に受けたりして店が引けるのを待って女の子を待ち伏せしたりするのだ。
 だから私は最初の頃、初めての客からは絶対にチップを受け取らないようにしていたのだが、やっぱり生きていくのには金が要るから、よく相手を見て、その人物と金額が安全な範囲であれば、受け取るようにしていた。
 それでも何度かは待ち伏せされて、必至に走って逃げたり交番に駆け込んだ事もあった。
 そうやって、借金を少しずつ返済して、あと少しで完済という油断をしていた時に、あの男と出会ってしまった。
 決してスマートとは言えない、不器用な外れ気味のストレートで押してくるあの男には、何て言ったらいいか分からない不思議な印象を抱いてしまい、何度目かの時に、つい心と体を許してしまった。

「ねえママ、あとどれくらい?」
「もうすぐ駅よ。ほらあの大きなビル。」
「でもちっともバス動かないよ。」
「駅に近いんだから道くらい混むわよ。我慢しなさい。」
「はーい。」

 この子、陽太はその男との子だ。
 でもその男には既に家庭があった。私は一人で陽太を育てる事にした。
 当然だけど、その男は私と一緒になるつもりは無かったらしく、それを伝えると、うっすらと安堵の表情を浮かべて
「それなら、これから、できるだけの支援はさせてもらう。」と言った。
 何だか裏切られた気がした。悔しくて、憎くて、悲しくて、
「支援?そんなの要らない。」ときっぱり返した。
 後悔はしていない。してるかもしれない。わからない。きっと後悔してるんだと思う。でもそれは支援を断った事じゃなくて、どこからこんな人生が始まっちゃったんだろうっていう後悔。もしやり直せるなら、どこまで私は私を遡ったらいいんだろう。
 そう、私はやり直したいんだ。

(バスのアナウンス)「終点、横浜駅西口です。お忘れ物落し物の無いようにお気を付けください。」
「陽太、降りるよ。荷物持ちなさい。」
「わーい、電車だー。」
「コラっ、走るな。」

 相鉄線急行海老名行き。
 あの男と出会った頃に一人で何度か乗った。
 彼の住む街はどんな街なんだろうと考えた時、ほとんど無意識にそこを目指して乗って、いつも途中で目が覚めたように途中で引き返していた。
 いつの日かそんな事も無くなったけど、今日は絶対に引き返さない。今日は一人じゃないのだから。

「ママ、見て見て。何だか変だよ。さっきから駅いっぱい通り過ぎちゃったよ。」
「この電車は急行だから、ふたまたがわって駅までは止まらないのよ。」
「ふたまたがわか、ふーん。キューコーって止まる駅少ないの?」
「そうよ。その分早く着くからいいでしょ。」
「うん。あ、そっか、きっと9個しか駅に止まらないからキューコーなんだ。」
「あはは・・・」
(※相鉄線急行海老名行きは本当に、横浜を出ると9駅である。)

 そうだ。陽太とこうして出かける事は、今まで・・・、全然無かった。
 私は夜働いて昼間はほとんど寝てるから・・・、仕方が無かったっていうのは言い訳ね。休みの日もあったのに、いつも疲れてる事を理由にして、ほとんどかまってあげられなかった。
 それなのに陽太はいつも私を気遣っていた。一人で遊ぶ事にも文句なんか言った例が無かった。
 夜間保育所に陽太を預けに行く時、いつも保育所が楽しいって言っていた。
「僕、保育所でいい子にしてるから、ママも頑張ってね。行ってらっしゃい。」
 いつもそう言って手を振ってくれた。

「ママ、何個目の駅で降りるの?」
「えっと、あと2個よ。やまとって駅。」

 前に来た時は、「大和(やまと)」で降りた事は無い。
 3つ手前の「希望が丘」か、2つ手前の「三ツ境」で引き返していた。だから、ここからは私も陽太と同じく、初めて見る景色になる。何の変哲も無い住宅街の景色だ。時折見える古い家並みが、この街の歴史を感じさせるくらい。
「大和」は、もしかしたら昔は武家とか住んでいたからそんな名前なのかな。
(※事実、宿場町として栄えていたが、“大和”という地名は近世になってからのものである。)
 ま、私にはどうでもいい事だけど、陽太にはどんな感じで見えてるのかしら。

「あとちょっと?」
「うん。あとちょっとだよ。」
「ママも、お兄ちゃんとお姉ちゃんに会えるのドキドキする?」
「するよ。(別の意味だけど)」
「お兄ちゃんとお姉ちゃんもドキドキしてるかな?」
「うーん、向こうは今日私たちが来る事知らないから、ドキドキはしてないけどきっとびっくりするよ。」
「そうだねー。でも会ってわかんなかったらどうしよう。だって会った事無いんだよ。」
「分かるよ。だって兄弟なんだから・・・。」

(車内アナウンス)「間も無く、大和です。」

「イェーイ、やまとだー。」
「ちょっと、コラ、陽太!」
「僕、走ったりしないよ。」
「そうじゃなくて・・・・、迷子になったら大変だから手を繋ごう。」
 いつも保育所に行く道すがら繋いでいる手が、こんなにも小さかったんだと改めて思った。

 初めての駅のバスロータリーは分かり辛く、やっと見つけた路線図と時刻表を見ると、発車時間ギリギリでその小さい手を強く握って早足でかけた。陽太も一生懸命に走っていた。

「ふー、間に合った。」
「やったー、一番前の席だー。」
「良かったじゃん。きっといい事あるんだよ。これから。」
「いい事?えへへ。」

 本当にいい事があるかどうかは分からない。きっと辛い目にも遭うと思う。でも、絶対に、彼方にとってこれが“いい事”なんだよ。一生懸命やってきたけど、やっぱりママ駄目だよ。
 君には兄弟がいるって事を話したのはね、本当の話。でも、その兄弟とはママが違うの。
 お兄ちゃん、お姉ちゃんと仲良くする為にはね、ママは二人いちゃ、いけないんだよ。

「ママ、ママ?」
「何で泣いてるの?お兄ちゃんたちに会えるのが嬉しいの?」
「・・・うん。そうよ。ごめんね・・・」
「大丈夫だよ。ママには僕がついてるから。」
(ごめんね、陽太)

 停留所を降りた所で、最後の勇気を振り絞って言った。

「陽太、ごめん、お土産買ってくるの忘れちゃった。ママ、すぐ買ってくるから、この手紙持って先に行っててくれる?」
「えーっ、じゃ、僕も一緒に行くよ。」
「我が侭言わないの。ほら、この道行った所に茶色い屋根のお家が見えるでしょ?そこだから。」
「嫌だよ。ママと一緒じゃなきゃ。」
「ママの言う事が聞けないの?ほらしっかりなさい。お兄ちゃんとお姉ちゃんも陽太がいい子じゃ無かったらガッカリするでしょ。」
「・・・・わかったよ。でも、ママも早く来てよ。」
「うん。買い物済んだらすぐ行くから。この手紙はちゃんと渡すんだよ。あんたが説明するより分かりやすく書いてあるから。」
「・・・うん。分かった。」

 あの手紙には、陽太がその家の主人の子供である事と、陽太の母親である私が親権を放棄する事、陽太の今後の面倒を見てやって欲しいという事を書いていた。陽太はあの家に入って行き、あの男の奥さんに手紙を渡した。

 その後の事は、想像する事すら耐えられない。
 家主のあの男以外は全員揃った家で、陽太は罵声を嵐のように浴びせられ、泣き喚かれ、狂乱の世界にその小さな身を預けてしまった。
 そして、ワケの分からなくなった陽太は気絶し、救急車で病院に運ばれる事になった。
 あの男は家族に呼び出され、接待ゴルフからその病院に向かった。陽太が意識不明のまま、あいつは家族に事実を話し、そして私を探した。

 死のうとしていた。
 さっき陽太と来た道のりの逆を辿っていた。
 出来れば、陽太に私の死を知られたくなかったから、遠くで死のうと思った。
 でも、何処に行く事も出来ず、結局死ねなかった。大和駅で足がすくんで動けなくなった。
 陽太の声が聞こえた。
「ママ、ママ・・・」

 あの男が私を見つけたのはそのすぐ後だった。大和駅のベンチに座ってたら、見つけて下さいって言ってるようなものね。
 陽太の事を聞いて、今度はじっとしていられなくて、気が付いたら、私は陽太の眠るベットの傍にいた。



 あれから、私は夜の仕事を辞めて、昼間に働いている。
 アルミサッシを作る工場で、サッシ本体にクレセントと呼ばれるターン式の鍵を取り付ける作業をしている。
 稼げる金額は以前の半分も無い。だけど借金は完済したし、贅沢さえしなければちゃんと生きていける。
 陽太は夜間保育から、昼間の普通の保育所に変わって、とても元気にしている。
 あの時のショックはかなり大きかったみたいで、完全にその部分の記憶が欠落しているけれど。
 正直、その記憶はもう戻って欲しくないけど、それは甘い考えだと自分で思う。

 ただ、これからはもう何があっても、太陽の下を生きていく。
 もう私は、陽太を裏切るような馬鹿な真似は絶対しないから。
 これからは、陽太の為だけに、生きていくから。
 陽太が私を愛してくれた分、いや、それ以上に私は陽太を愛さなくてはならないの。
 だから、陽太、お願い、ずっと私を、ママって呼んでくれる?



 ママ、僕、覚えてるよ。
 ママはちゃんと迎えに来てくれた。
 いつも保育所で寝ちゃって、起きたらいつもお家だったみたいに。
 あのお兄ちゃんとお姉ちゃんには、別のママがいたから、間違いだったんだよね。
 あの時はとっても恐かったけど、ちょっとだけは嬉しかったんだよ。


 ママはやっぱり僕だけのママだって。




******************


重いな。うーむ。


ドイツミュッシェンバッハに社を構えるトロイカ社は、高品質なギフト製品のメーカーとして設立された。今日のトロイカは、ドイツ..

posted by yoshi at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 創作モノです(#^.^#) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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